戴錦華、姜文を語る1

90年代に『霧中風景』という映画評論集を出した戴錦華の
姜文評。
『霧中風景』を読んだ時、『覇王別姫 さらばわが愛』はあまりに
失望させられたというくだりに驚くと共に深く納得させられたもの
だが、この姜文評にも、私が彼の近作に感じていたモヤモヤを
一刀両断、見事に解説してくれていてスッキリした。
以下、拙訳でその一部を下に紹介します。


姜文のことはあまり語りたくない、その理由は個人的なものだ。
私はずっと姜文に強烈な期待を抱いてきた。
姜文に対する期待は、姜文はずっと映画そのものに対する
純粋な愛を表現していると感じたからで、
『太陽の少年』であっという間に有名になり、天才スターから監督になり、
映画作品も出色の出来であってからも、彼はその純な愛を表現してきた。
と同時に、俳優から監督になったために彼はあまり映画史や映画監督界の
中心に存在してこなかった。
世界の映画の悲哀はどの監督も映画を観て映画を撮っていて、
人生を見て映画を撮っていないことだ。
どんなに才気があろうと、人生を見て映画を撮れば無数の映画に行く手を阻まれ、
最後はその映画作品は非常に狭いジャンルのものとなってしまう。


姜文はまさに才気溢れる人で、同時に監督として育てられた人でないために、
オリジナリティーに溢れている。
そこが私が姜文にはじめからずっと期待していたl理由である。
そういう意味で、今に至るまで、私は《太阳照常升起》(日はまた昇る)が一番好きだ。
だが、《太阳照常升起》はある意味姜文のワーテルローで、
その興収の惨敗が姜文に与えた挫折感、あるいは傷は非常に深く、
彼はその後、ずっとそこから立ち直ろうとしてきた。

立ち直りに成功したのが《让子弹飞》だが
《让子弹飞》は姜文作品の中では
私個人の評価がさほど高くない作品だ。
彼の聡明さと才気で娯楽映画を撮ることは難しいことではない。
この映画を私はなんとか認めようとしてきた。
認められるのは、今の中国映画には見ることが難しい、
社会正義と公平を叫ぶ素朴な声という点だ。
だから、この映画の中で大声で“公平、公平、公平”と叫ぶのは、
非常に尊い、社会に対する表出である。
なぜなら、なかなか聞くことはできないからだ。

(相変わらず辛口だが鋭い指摘だなあ)

姜文の映画がよく失敗するのは彼がナルシスティックに
自己愛を表現する点だ。

(まったく同感)

続く《一步之遥》と《邪不压正》で姜文はまさにそうした
非常に典型的なこの時代の難しさを私たちに露呈することになった。
つまり、観客と社会に対する批判、オリジナリティーが
すでに大資本に絡み取られているということだ。
自分には芸術性があるのに撮る金がないから、というのは
私たちがよく知る難しさである。
姜文は明らかにそれに甘んじることなく、強烈な独創性への希求、
強烈な自己表現欲、自分の名を映画史に残したいという希望がある。
だが、手にするバジェットの大きさのゆえ、オーソン・ウェルズが
「映画とは大人のために発明された最高の玩具だ」と言ったように、
姜文に資本で遊ぶゲームをさせてしまう。
それこそがこの二作品を困った状況に陥らせたというより他ない。

姜文は《让子弹飞》に始まる彼の続く三本の作品を
“北洋三部曲”と命名している。
北洋軍閥時代は非常に特殊な時代で、ある意味で権力の真空状態であり、
権力の真空状態での、赤裸々で強権的な暴力的な血なまぐさい世界であり、
安定したものが何もない世界だった。
それが《让子弹飞》が成功した理由だ。
《邪不压正》になると、非常に重要なことが出現する。
つまり、日本軍の中国侵略で、日本軍が北京に入城した。
私にとって、これは歴史的な瞬間で、そうした私が思うに生きとし生ける
あらゆる中国人が激痛を感じている時に、ゲームをすることを許すことは
できない。
率直に言えば、それは別に直接的な私の姜文批判とはならないものの、
私とこの作品の間の越えられない障害となっている。これが姜文だ。

(姜文は『鬼が来た!』を撮ってるから反日と単純に思う日本人がいるが
実は彼は大変な親日家、日本文化が好きな人で、戴錦華の反感は正しく、
《邪不压正》は盧溝橋事件前夜の北京を描き、日本人(『鬼が来た!』で村人を
惨殺する軍曹役の俳優)が悪役で出ては来るが、映画そのものはまったく反日
ではなく、殺陣は日本人アクション監督谷垣健治さんを起用している)

かなり長くなったので、インタヴュアーの毛尖の質問に答えて
姜文の自己愛について語る部分は続きで。


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