戴錦華、姜文を語る2

毛尖:姜文の『太阳照常升起』が好きだとのことですが、この映画についてこれは姜文の
極度の自己愛の照射だと言う人がいます。終わりの方で、唐の妻が彼を探し当てた時、
彼は山頂で銃をかかげて狩人が獲物を撃ち取った時の勝利を示す動作をし、
妻とのラストシーンの汽車の上で踊り狂う場面といい、相当な自己愛的行為の体現です。
その点をどう評価されますか?

戴錦華:正直言って、映画の中の世界の果てに手が突っ立っていて、あの女性が歩いて歩いて
世界の果てにたどりつくと、姜文が手の背後からかっこよく出てきた時、なんとまあ、と思いましたよ。
この映画を好きだけれど、あのシーンは私も相当に呆れました。
あのシーンは姜文の自己愛の表出が芸術表現を破壊しています。まったく同意します。

私がこの映画を好きなのはそのスタイル、イマジネーションの極度の高揚です。
私は彼のそうした想像力を評価します。奇抜で変わったスタイルの画面は、
私にとって非常に興味深い、まったく異なる“文革”表現です。
“文革”を身近に体験した者の表現であり、“文革”そのものの表現ではない。
そして、“文革”が終わった時はまだ子供だった姜文があの歴史を非常に面白く表現している。
荒唐無稽さ、情愛、裏切り、情欲、その他さまざまなものに関する、そういう意味での達成は
そんな小さな自己愛を圧倒します。

姜文映画には常に自己愛の問題がある。私もそれを認めるのにやぶさかではありません。
姜文映画が失敗するのもまさにその溢れんばかりの自己愛の表出にある。
自己愛は永遠のテーマで、
姜文がそれを非常にうまく《阳光灿烂的日子》では成功させたが、
最後はやはり自己愛に失敗している。馬小軍のナルシズムがすばらしい物語をあそこで
つぶしてしまっている。彼が自己愛に打ち勝った時は非常にすばらしいのですが、自己愛に
とらわれてしまうと、観客はおいてけぼりにされる。
なぜなら、誰もが自己愛はあるわけで他人の自己愛を分かち合おうとはしない。
そして、他人の自己愛に対しては非常に皮肉な気持ちを抱くからです。

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